陰キャ、陽キャだの、なんとなく似た性質の人を括って分ける。人間の性質ってのは本当はそんなに簡単に分けられるようなものじゃないのに
学生の頃はわかりやすくて、みんな何かと陰キャだの陽キャだの気にして、互いに一線を引いてバカにしたりからかったりする
思春期特有の自意識がそうさせるのだろうが、しかしこの呪いは意外と尾を引く。あの教室から出ても、過去の自分が新しい自分を否定する。
結局のところ、社会に出て陰キャだの陽キャだのという概念から解放されても、人々は何かにつけて判断をして、「あいつは仕事ができない」だの「あの人はブスで太っている」だのなんだの言って、カテゴリー分け、レッテル貼りをしている
これでは結局学生の頃と同じだ。そしてその思考は最終的に自分を苦しめる。
そこから抜け出すにはやはり、すぐに判断して、何でもかんでもテキトーな枠に当てはめて、テキトーに反応してあーだのこーだの言っている我々の悪癖に気付かなければならない。
考えてみて欲しい。例えば朝、通勤中に楽しそうにはしゃいでいるカップルがいたとする。それを見て「バカみてーにはしゃぎやがって、クソくだらねぇなー」と思う
スターバックスの窓からラテを飲みながらMacBookを開いてる人を見て、「うわっ意識高い系じゃん、今日も変な名前の飲み物飲みながらパソコンいじってるよw」と思う
会社に着いたら、今度は入ったばかりの新入社員に早くもレッテルを貼り、同僚達と「あいつは全然ダメ。人事部は何を考えているんだ?」とかそんな話ばかり
そして、その刃は他人だけではなく自分に対しても向く。自分はダメなやつだとか、他の人たちと比べて劣っているとか、そんなことを考えだしたりする
そういう思考ってのは結局自分を苦しめる
恋人ができたら、過去にバカにしてた自分を思い出す
スターバックスに入ろうとしても頼む時に恥をかきたくなくて入れない
会社では他人からの評価を常に気にして、自分の考えを伝えられない
これでは楽しく生きられない
当たり前だが本当は、はしゃいでいるカップルがいたらそこには、はしゃいでいるカップルがいるだけだ
スターバックスでMacBookを開いてる人がいたら、そこにはスターバックスでMacBookを開いている人がいるだけだ
会社にはまだ入ったばかりの新入社員がいるだけだ
つまり、我々は何かを見たり聞いたりするとすぐに [こいつは良いやつ、あいつは悪いやつ] [これは好き、あれは嫌い] とか何かの枠に当てはめて考えるが、本当は全ての事柄は、ただそこに在るだけなのだ。何かを見て、必要のない判断をするのはまさに自爆である
もちろん、判断をしなければいけないこともあるし、何かに当てはめて物事を考えなければならないこともたくさんある。会社なんかはその典型だろう。それ自体を全否定したいわけではない
じゃあどうするか
人生をつまらなくしている余計な判断を中止する。判断してしまうような思考が湧いてきたら、それに気づくことが大事だ。余計な判断を減らすことができれば、だいぶ肩の力が抜けて楽に生きられるはずだ。
そして、自分の善を遂行する。ここでいう善とは、辞書通りの意味というよりは、もっと広い意味で考えてほしい。自分が楽しい、嬉しい、心が躍るようなことをやる。もちろん人に迷惑はかけないように。それによって自分に生きる活力が湧いてきたら、それは紛れもなく善だろう。そして、自分がイキイキとしていたら周りの家族や友人も嬉しくなるかもしれないし、それもまた善だ。
余計な判断を中止せよ。お前はお前の善を遂行せよ